この話、卑近な例から始めたい。
昭和四六年七月、夏の全国高校野球福岡大会五回戦でわが宗像高校は福岡県代表の呼び声高い小倉工業高校と対戦した。一対一で抑えた九回裏ツーアウト走者二塁でバッターは二番の私。監督の指示は「右中間を抜け!」だった。小倉工業、左腕投手の鋭いカーブを気持ちは右中間に打ったつもりが、ボールは三塁手の頭の上をフラフラと飛びポトンと落ちた。つまりサヨナラヒットである。
さて翌日の朝日新聞西部本社版。
「痛烈なライナーがレフト前に」と私の写真入りで大きく取り上げてくれた。試合後に監督、部長、先輩たちに「パシっと決めんか!」とか「指示を守らないかんばい」とか、「やっぱ、お前らしいヒットぜ」とか、しかられたり、からかわれたりして、「嬉しさも中くらいなり」だった私は、この記事でよみがえり、自分でも「痛烈なライナー」を打ったと思い込むようになった。「天下の朝日がウソをつく訳がなかろうもん」と。
ところで、夏の高校野球といえば、朝日新聞が主催で販売拡大に最も貢献したイベントである。次回書くつもりだが、私は「日教組」育ちである。この「日教組」育ちを理論面で支えてくれていたのが、朝日新聞と岩波書店である。高校時代、何か腑に落ちなかったのが、朝日主催の甲子園だった。どう見ても、学徒出陣の雰囲気だし、愛校精神の、愛郷精神の勧めである。テレビではわかりにくいだろうが、礼儀マナーについてはとてもうるさく、しょっちゅう審判や大会関係者にどなりつけられる。それがどうして愛国精神だけはダメなんだ。そもそも朝日が勝手にイメージをつくっている高校野球は“純粋で美しく感動的だ”というのが、全くのウソである。強いチームはみんなスカウト、つまりお金で選手を集めるし、野球ばかりやっている高校生はろくに本も読まない連中だ。甲子園大会は、新聞の“正義”は商品で、売れれば何でもやるということの証左である。
次の話は、大学四年から五年のときのことである。昭和五三年から昭和五四年のころである。
私はあこがれの新聞社で政治部デスクの補助の仕事、つまりアルバイトをしていた。当時はまだファックスというしろものがなく、原稿を電話で送ることが多かった。
あるとき、日本政府の首脳陣がイランを訪問するというので同行した記者から電話で記事を送ってもらうてはずになっていた。しかし、通信事情が悪い地域のことであり、各社記者は「予定原稿」なるもの、すなわち前もって現地に入っているふりをして書いておくということをする。私が唖然としたのは、一行がまだ飛行機の中にいるはずの時間なのに、「テヘラン発」と書いている他社の新聞があったことだ。私がお手伝いをしていた新聞社も、現場からの記事を担当デスクが「読者サービス」と称してあること、ないこと、書き加えてるのだ。地方選挙のとき、東大阪で取材してきた中曾根派担当記者の原稿を、田中派に近いデスクが勝手に書き変えていた。記者はそれを見て、「そんなでき事全くありませんよ!」と抗議していたが、デスクは聞く耳を持たなかった。
あるとき北朝鮮を各社記者団とともに取材してきた野党担当記者が書いた原稿を読んだ部長が怒って、「お前、何見てきたんだ。北朝鮮がこんなバラ色の国な訳がないだろう!」と書き直しをさせたことがある。次の日、他紙はだいたい、それこそ「ハエ一匹飛んでいない理想の国」といった記事であった。新聞はまちがっても後で決してそれを取り消しはしないことも学んだ。
その時期は、ちょうど田中角栄政権のとき、日中国交回復ということで平和条約締結に向けて、各社条約案文を特ダネとして、ああでもない、こうでもないと流していた。
新聞記者に憧れを持っていたのが、絶対に新聞記者にはなりたくないとなった。新聞記者は多かれ少なかれ、自分が正義の代表、自分が世の中動かしていると思い込んでいる不遜な輩だ。
就職せずして(できずして?)九州に帰省した私は、古い家を取り壊したあとの襖の下張りとして、昭和十七、八年当時の朝日の古新聞が張ってあるのを見つけ、読んだ。新聞社に就職しなかった自分の判断を褒めた。